1952年9月25日、ニューヨーク市に生まれる。
4歳の時、両親が離婚。母はジャーナリストのバーバラ・P・ラム、父は作家で大学教授のフランクリン・D・リーブ。母親はクリストファーと弟のベンジャミンを連れてニュージャージー州のプリンストンへ移る。そこで、2、3年後、株式仲買人のT・ジョンソンと再婚。父もコネティカットで再婚。そのため、兄弟は双方の家族を往復しながら生活することになる。作家、詩人、ロシア文学研究者であった父のもとで過ごす時間は、父の友人である著名な文化人が集まる日曜日のディナーも含め、知的刺激に満ちたものであった。
兄弟は、はじめパプリック・スクールに入ったが、義父の配慮で、私立の進� �校、プリンストン・ディ・スクールに通うことになる。8歳の頃までに学校の演劇に出るようになり、音楽とピアノのレッスンに興味をもった。クリストファーは9歳の時、選ばれてマッカーター劇場のオペレッタ、ギルバート&サリバンに出演する事となった。マッカーター劇場はプリンストンのプロの劇場である。学校と劇場を両立させながら続ける。後に彼は、劇場は自分にとってホームのようなものであった、と振り返っている。
15歳の時、マサチューセッツのウィリアムズタウン劇場の夏期研修生になる。以後ウィリアムズタウン劇場は、彼の演劇活動の拠点となった。高校卒業後、コーネル大学に入学。音楽理論と英語を専攻。しかし多くの時間を演劇の勉強と劇場の仕事に費やした。アメリカの主要な劇場のみな� �ず、イギリスやフランスの著名な劇場でも仕事をした。
1974年の秋、努力の成果が際立っていたため、ニューヨークのジュリアード学院に特別に入学を認められる(この時、ともに入学を認められたのが、ロビン・ウィリアムズであった)。ジュリアード在学中、テレビのメロドラマ「命をかけた愛(Love of Life)」に出演。
スポーツの不安
1976年「マター・オブ・グラビティ(A Matter of Gravity)」でブロードウェイへのデビューを果たす。これは、ブロードウエイスターのキャサリーン・ヘップバーンとの共演であった。この年、仕事と学業の両立が難しくなり、ジュリアードの最後の学年を諦め、仕事に専念することを決めた。またこの年、ロスアンゼルスへ行き、ハリウッド映画にも脇役で出演。ニューヨークに戻り、オフ・ブロードウェイのプロダクションに所属することになった。
1978年、「スーパンマン」俳優となる。
1978年、映画「スーパーマン」のオーディションを受け、合格。 「スーパーマン」の撮影は18ケ月に及んだが、殆どイギリスで行われた。そこでゲイ・エクストンと出会う。その後、二人の親密な関係は続き、二人の子供、アレクサンドラとマチュウが生まれた。
「スーパーマン」の成功の後、映画「いつかどこかで(Somewhere in Time)」に出演。また1980年夏、ウィリアムズタウン劇場で演劇上演の仕事にたずさわる。「スーパーマンU」が製作され、再度スーパーマンを演ずる。
1987年、ゲイ・エクストンと正式に結婚しないまま別れる。二人の子供については共同養育を継続。ウィリアムズタウンで過ごした夏、あるレストランでそこのショウに出演していたディナ・モロジニと知り合う。まもなく二人は同棲し、1992年に結婚、息子ウィルをもうける。ディナは女優と歌手のキャリアをもっていた。
「スーパーマン」シリーズは長編シリーズとなり、1987年の第4作まで続いていた。この間10年間、スーパーマン・スターとしての名声を確立。
芸域の拡大と社会活動への参加、そして多趣味なスポーツマン
そのほかにも「日の名残(The Remains of the Day)」(1993年アカデミー賞受賞作品)など17本の映画に出演した。出演したテレビドラマは12本を数える。また、数多くのドキュメンタリーやテレビのスペシャル番組のホストやナレーターをつとめている。彼の並外れたルックスの良さと鍛えられ均整の取れた体躯は往年のハリウッドスターを彷彿とさせるものであった。殆ど毎夏、ウィリアムズタウン劇場で演劇の仕事にたずさわった。
重量超過手荷物の写真
一方、社会的活動にも深い関心を持つ。俳優の組織である創作家連盟(Creative Coalition−アーティストの権利擁護のための団体)の創設に参加し、また国際アムネスティのために活動して来た。児童問題や環境問題にも積極的に関わってきた。どちらかと言えば民主党寄りのリベラルな政治理念を持っていた。1987年には投獄された作家を支援するためにチリへ行っている。他方、スポーツマンでもあり、趣味として多くのスポーツ競技をこなした。たとえば、ヨット、スキューバダイビング、スキー、グライダーや飛行機操縦、乗馬などである。そして、馬術競技イベントで、騎乗した馬が何かに驚いて突然停止したため、落馬事故となったのである。
1995年5月27日、C1〜2頸髄損傷者となる。
1995年5月27日、クリストファー・リーブのサラブレッドが、柵をジャンプ するところで立ち往生し、彼を放り出してしまった。彼は頭から墜落し、一瞬の内に麻痺し呼吸も出来ない状態となった。素早い手当てが彼の命を救い、精緻な手術が、椎骨C1とC2を安定させ頭蓋と脊椎を連結した。ケスラー・リハビリテーション研究所で6ヶ月を過ごした後、彼はニューヨークの自宅に戻った。そして、積極的な社会的活動を開始する。 (ここまでの経過についての詳細は、以下を参照。)
* 「U.クリストファー・リーブの急性期医療」と
* 「V.受傷から早期社会復帰までの経緯」
1996年3月25日(受傷後10ヵ月後)、第68回アカデミー賞式典に人工呼吸器を搭載した車椅子で出席、スピーチを行う。また、同年、8月26日(受傷後1年3ヵ月後)、民主党全国大会に出席して、自らの発声でスピーチを行った。彼のこの驚異的なスピードでの回復と社会復帰、そのための彼の努力によって、彼は、アメリカの脊髄損傷者のシンボル的存在となった。
失語症治療ニュージャージー州
映画・演劇活動への復帰、
そして脊髄再生医療推進と麻痺者のための福祉活動の先頭に立つ
1996年1月には、ニュージャージー州ウェストチェスターにあった家の改築が済み、やがてリーブと妻ディナ、息子ウィルはそこに住むようになった。先妻との間の子供たちアレクサンドラとマチュウも、学校のスケジュールが許す限り、そこで生活を分かち合うようになった。リーブは「子供たちと共に馬に乗ったり、ピアノをひいたり、歌を歌ったり、テニスをしたりといったことは全て叶わなくなった(子供達も自分も大好きだった)けれど、今では共に時間を過ごすことの重要性を以前にもまして皆受け入れている。」と語っ ている。家族一丸となってしかしそれぞれのやり方でリーブの活動が支えられていくことになる。脊髄損傷者を治療する医学・医療を推進するため、クリストファー・リーブ財団(CRF)をディナの協力のもとに設立する。
彼はこの時、「脊髄再生医療成功の暁には、自分が最初の治験者となってもよい」、 「7年後の50歳の誕生日には立って歩き、支援してくれた人々と乾杯したい。」と語った。"再び立ち、歩く。"― それは全ての脊損者にとって究極の願いである。早速、ワシントンでのロビーイング活動を開始、脊髄損傷に関する研究を促進するために、国立保健衛生研究所(the National Institutes of Health、NIH)への予算配分の増額をかち取った。事故後徐々に彼の身体の部分(特に左脚、左腕部分)で感覚の回復が見られた。が、依然として肩以下何一つ動かすことは出来ず、人工呼吸器も必要だった。とはいえ、1998年始め頃から、彼の体調は少しずつ安定して行った。1998年4月には、自伝 Still Me が発刊され、全米ベストセラーとなった。彼は次のように語る。「自分は、実際、楽観主義者である。私の傷ついた脊髄C1、C2、から下の脊髄は健在の筈で何時でも動き出す準備は整っている。自分は残された人生を今のままの状態で過ごすつもりはない。」と。そして一日4時間のリハビリを行い、テレビへの出演や映画の監督、講演や脊髄研究のための資金募金活動を勢力的に続けたのである。
1999年、「アメリカ麻痺協会(APA)」と「クリストファー・リーブ財団(CRF)」が合併して、「クリストファー・リーブ・麻痺財団(CRPF)」となり、リーブはその会長に就任した。脊髄再生研究推進や麻痺者のための福祉推進を目指して、連邦議会へのロビーイング、イベント、講演等で、彼の生活は益々多忙となった。褥瘡の悪化や骨折等、様々なトラブル乗り越えながら、彼は自分の役割を果たしていった。
2002年9月初旬、リーブは二冊目の著書 Nothing is Impossible を英米の両国で出版、時をほぼ同じくしてオーディオ版も出した。これはいずれも、書評は好評で売れ行きもよい。2002年9月25日にリーブは50歳を迎えた。「50歳の誕生日には立ち、歩きたい」という彼の願いは、いまだ果たされてはいないけれども、誕生日を前に9月10日付けで「クリストファー・リーブ麻痺財団」によって発表された、リーブの機能回復状況に関する報告書には、彼の肉体的機能が著しく改善していることを伝えている。
(「日本せきずい基金ニュース」No.15参照)
さらに、2003年2月28日に、新しく開発された、いわば「横隔膜ペース・メーカー」呼吸管理とでも言うべき治験に挑戦した。腹部4ヶ所に小さな孔をあけ、横隔神経の挿入ポイントに対応する横隔膜に小さな電極� ��置き、電極は皮膚下のワイヤーより体外の小さなバッテリーに繋がり、横隔膜を刺激して、呼吸を可能にするというものである。彼は現在、まだ呼吸器を使用しているが、酸素消費量が増加している時にこの方法を取っている。そして、横隔膜の筋肉が強度を回復するにつれ、呼吸器から永続的に離脱できるようになるだろう、と期待している。彼は、自分自身を治験体としながら、脊髄損傷医療の前進に貢献しようとしている。
(「日本せきずい基金ニュース」No.18参照)
彼の長男マチュウは、2002年5月、ブラウン大学を卒業(人文学部、記号論専攻)、テレビのスペシャル番組のために、父リーブの回復過程に関するドキュメンタリーを制作する仕事に携わっている。また、娘のアレクサンドラは2001年に� �ェール大学に入学。父の乗馬事故をものともせず、馬上球技ポロ競技に興じている。エクストンとの間の子供たちも、父の近くにあって彼の活動と挑戦を支えるまでに成長した。
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